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仁智会について- 創業の精神 -

Founding spirit

創業の精神

医療と介護が一体になって、
病める老人の方々に
安心と心豊かさを届けたい。

医療法人社団仁智会 理事長 北中 勇

老人医療って
これでいいのかな?

それは私が医師として、
診療現場に立ち始めたころからの疑問でありました。
寝たきりの老人は、ベットの上で薬漬けの毎日、
徘徊老人は、精神科の閉鎖病棟の中で、
大量の向精神薬で行動を抑制されているのが、
普通のことでした。

大切なのは薬より、
人の手による介護ではないか!

そんなふうにブレークスルーして、
診療所を創設したのが、1987年6月1日でした。
そして翌年5月、石川県で最初の老人保健施設を開設しました。

ほら、みんな生き生きしてきたよ。

「寝たきりは起こそう、徘徊は好きなだけ自由にやってもらおう。ほら、みんな生き生きしてきたよ。」
そんなときの老人たちの明るい笑顔は今でも
脳裏に焼きついています。
「医療と介護が一体になって、
病める老人の方々に安心と心豊かさを届けたい。」
これが私の創業の思いなのです。

法人名の由来

どこにあっても医師は、患者さんに「親切」に、そして生涯「勉強」をと、二つの言葉を恩師からいただきました。
この言葉といつも向き合えるように、論語から「親切」には「仁」、「勉強」には「智」の文字を引用して、「仁智会」と名付けました。

仁智会のあゆみ

1987年(昭和62年)の創業以来、高齢者介護の進歩、発展の一翼を担ってきた仁智会。法的制度の充実に歩を合わせながらも、ニーズに沿ったサービスをいち早く取り入れて丁寧に取り組んでまいりました。介護制度の発展の歴史とともに、当法人の沿革をご紹介します。

1987年(昭和62)6月1日 金沢市春日町に春日町診療所開設
春日町クリニックへ名称変更(同年11月)
1987年(昭和62)10月 医療法人社団仁智会設立
1988年(昭和63)4月 改正老人保健法の施行による老人保健施設制度の創設
1988年(昭和63)5月 老人保健施設春日町ケアセンター開設(100床)石川県では第一号
→1992年 240床に
1995年(平成  7)5月 野々市市に老人保健施設金沢南ケアセンター開設
1999年(平成11)4月 金沢お年寄り介護相談センターかすが開設(金沢市委託)
→2012年 地域包括支援センターへ名称変更
2000年(平成12)4月1日 介護保険制度スタート
2000年(平成12)4月 通所リハビリテーション開設
通所介護開設
短期入所生活介護開設
グループホーム花・風・星・虹 開設
グループホーム つばき、れんげ 開設
訪問介護ステーション開設
配食サービス事業開設(金沢南ケアセンター)
2000年(平成12)7月 託児所開設(春日町ケアセンター)
2001年(平成13)3月 グループホーム神宮寺開設
2002年(平成14)10月 金沢南ケアハウス開設
金沢南クリニック開設
2003年(平成15)10月 ISO9001品質マネジメントシステムの運用開始
2006年(平成18)4月 改正介護保険法による介護予防制度の導入
2006年(平成18)4月 各事業所で介護予防サービス開始
2007年(平成19)4月 金沢市元菊町に金沢春日ケアセンター竣工
金沢春日クリニック
金沢春日ケアセンター
金沢春日ケアハウス新規開設
2007年(平成19)4月 グループホーム駅西開設
2009年(平成21)9月 クレド(Credo)信条・行動指針を定める
2013年(平成25)7月 第24回全国介護老人保健施設大会 石川in金沢の開催
2014年(平成26)9月 サービス付き高齢者向け住宅「金沢春日レジデンス」開設
2015年(平成27)6月 訪問リハビリテーション開設
2016年(平成28)10月 野々市市郷・押野地区地域包括支援センター開設(野々市市委託)
2017年(平成29)6月 仁智会30周年記念式典開催

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Dawn of care

介護の夜明け

昭和50年前後の老人医療の現場を思い出しています。
現在は死語となりましたが、当時は当たり前のように使われていた表現もあえて用いながら、書いてみたいと思います。

第一章 そのころの老人医療は…

医学部を卒業して数年、そのころ在籍していた金沢大学付属病院では、はっきりとした診断のもとに、必要な治療をする目的で入院した患者さんと向き合っていました。ところが、地方の病院へパートの診療に行きますと、何の目的で入っているのか判らない患者さんが大勢入院していることにびっくりしました。脳卒中の後遺症の患者さんは、ベッドで寝かせっきりの状態でした。体位交換は十分でなく、褥創(じょくそう)は背中にいっぱい、食事はベッドの上に寝かされたままスプーンで口に押し込むように食べさせられていた姿を思い出します。

看護師さんも体を起こしてあげたり、トイレ誘導などのために車椅子に移乗させたりすることよりも、医療的な処置に手を取られてそこまで手が回らないようでした。そんな状況のなかでも、どこにフォーカスを当てたかよくわからない薬と点滴だけは、しっかりと処方されていました。私は疑問に思いながらも、カルテの通りに継続処方や点滴の指示をだすわけです。週1回ぐらいのパート診療では、それ以上の治療に関われない立場だったとはいえ、内心は「本当にこれでいいのかな」という思いでいました。

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第二章 「社会的入院」の実態

その一方、治療も終わって健康を回復したにもかかわらず入院を続けている不思議な患者さんに、退院を勧めたこともありました。退院を望んでいると思ったからです。これがとんでもない勘違いで、「退院を強制された」と院長に訴える患者さんもあり、何度か叱られました。患者さんにとっては、家に帰っても身の置き所もなく、病院にいたほうが大切にされていることが後でわかりました。病院にとっても診療報酬が入ってくるわけで、入院を続けることがお互いの利益につながることになるからです。極端な話、ベッド下にコンロを持ち込み煮炊きして、病院を生活の場としている患者さんもいました。これが後々問題となるいわゆる社会的入院でした。

認知症の患者さんはどうだったでしょう。当時は認知症という言葉さえまだなく、「痴呆(ちほう)」とか「呆け(ボケ)」などと呼ばれ、揶揄(やゆ)の対象でもありました。徘徊(はいかい)や夜間せん妄などの行為があれば直ちに精神病院へ回され、閉鎖病棟へ入れられました。精神病の患者さんよりももっと厄介な患者として扱われ、精神病薬を大量に飲まされて、その副作用のため手足の自由もきかなくなり、ひたすら眠らされていた…というのがその“治療”でした。そのほうが動きまわらず、看護の手も掛からないからです。当時の医療保険制度の狭間に巣くう老人医療の矛盾は改善されることもなく、この後15年以上も続くのです。

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第三章 中間施設から老健へ

これではいけないと立ち上がった方々がいました。九州の福岡で老人の医療に携わっておられた矢内伸夫医師を中心とした方々です。この状態を改善するためには、病院と家庭の間で介護を中心とした施設が必要であると、当時の厚生省に訴えかけたのです。今から30数年前ごろになります。それが「中間施設」という名称で呼ばれ、後には老人保健施設と呼ばれるようになる医療と介護を同時に提供する新しい施設の出発点となるのです。

病院で治療が終わった後は、その施設に移って、薬や点滴を極力使わないようにして、リハビリと介護を中心としたケアを行い、体の機能を回復してから家庭へ帰ってもらう。そして費用は、それまで医療費の無駄につながってきた出来高払い制ではなく、当時としてはとても画期的であった定額制が採用されました。このころから、「介護」という言葉が使われるようになったと思います。


その新システムを実際の場で試してみようと、全国で7カ所の病院がモデル施設として選ばれて、2年間の試行が行われました。その結果、良好な成果が得られたため、1988年(昭和63年)に老人保健法に基づく正式な制度として発足することになるわけです。同じ年に仁智会の老健も開設されました。

この制度によって、高齢者患者の人権は回復され、しかも無駄な医療費が削減されるということで、厚生省はもろ手を挙げて、前のめりで政策決定を急ぎ、また提唱者側も老人医療改革の実現のチャンス到来とばかりそれに乗ったわけです。まだいくつかの点で検討の必要性はありましたが、十分な時間はありませんでした。在宅復帰もその一つでした。不可能が可能にというばら色の夢に引かれたためか、その試行データの評価が甘くなり、後にこれが簡単ではないことが判明しても、老健はその完全な遂行を求められることになるのです。その後、在宅復帰は重い十字架となって老健の肩に食いこむことになるわけです。


しかし、「薬は使わない、寝たきりは起こそう、認知症は好きなだけ動き回ってもらおう」、という老健から発信した新しい老人介護の理念は、その後全国民の支持を得て、新しい介護の時代を確立してきたのも事実です。冒頭に述べたあの悲惨な老人医療の姿はすっかり姿を消しました。老人保健施設制度の発足と同時に創設されたこの仁智会は、今に至る輝かしい介護の進歩を、ゼロから始めて30年に渡ってその一角を担って参りました。このことは仁智会の職員は誇りに思っていいと思います。「我々が介護を作ってきたのだ、そしてこれからも新しい介護を開拓していくのだ」と。

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